詳細未だ不明:古代・中世日本の耳かき

よくわかっていない古代日本の耳かき事情

中国の出土品から、耳かきは相当古くから存在していた物であることが分かっていますが、日本ではそれほど古い物は見つかっていません。
古代の日本は金属加工技術が中国ほど発達していなかったので、後々まで残りやすい金属製耳かきをたくさん作れなかったことが原因のひとつかもしれません。

長屋王邸跡の耳かき

長屋王邸宅跡

日本における耳かきの出土例として最も古いのは、長屋王(飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。684~729年)の邸宅跡から発見された木製の物です。
長屋王は当時の皇族勢力における巨頭の一人であり、邸宅の敷地は3万平方m、年収は現代価値に換算して4 億円にも及びました。

見つかった物は耳かきではなく、何かを固定していた留め釘ではないかともいわれており、実際のところは不明です。

この邸宅跡は平成3年にそごうデパートの建設の最中に見つかりましたが、現在は建設によって大半が破壊されて埋め立てられてしまいました。
ただ、そごうデパート奈良店は2017年9月10日に閉店したので、再開発の際に調査が再開されるかもしれません。

稲荷山経塚の耳かき

 経塚の図

後の時代の物には、京都伏見区深草町の稲荷神社境内において、明治44年(1911年)に発掘された稲荷山経塚からの出土品があります。
経塚はお経を収めた塚のことで、経筒という容器に収めた経典が、銭や刀子、仏像、玉、鏡などの副納品と共に埋められています。

稲荷山経塚は平安時代末期から鎌倉時代初期に作られた物と見られています。
埋まっていた物はかなり豪華で、砂金が入った鍍金銀製の合子、銀塊、延べ金、銀製の経筒、古銭、玉などです。
周囲からは鏡や金銀銅製の花瓶や皿、刀の破片などが見つかっています。

稲荷山経塚の耳かき

それらに交じり、耳かきとして使える銅製のかんざしが1本発見されています。
以下は、経塚の遺物を研究した岩井武俊氏の「山城国稲荷山経塚発掘遺物の研究」にあった記述の要約です。

「金銅簪・竹枝の意匠を以て制作された精巧な物で、端から約3cmの当たりで折れ曲がっている。
折れ曲がった部分から反対の端までは12.2cmで、次第に細くなっている。
全体は10節に分かれ、先端部は耳かきがついている」

耳かき付きかんざしは、古代中国の重要人物の墓からもよく発掘されています。
中国からの輸入品であったのか、国産品であったのかは不明ですが、経塚に埋めるものとしても特に不自然ではありません。

初出現した「耳掻」のワード

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文章として「耳かき」のワードが出て来るのは、室町後期の公家、三条西実隆が記した日誌「実隆公記」とされています。
これは60年以上に渡って実隆が記し続けた日記で、当時のことを知るための一級資料です。

大永六年三月八日(1526年3月30日)のところに、「範種参宮還向、宮笥耳掻進之」との記述があります。
現代語訳するなら「範種が宮に参拝した時、宮司から耳かきを進呈された」といったところでしょう。

現代でもお祝い事で楊枝を送る習慣があるので、何かの祝い事のプレゼントだったのかもしれません。

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